この庭は、少し奥にあります。
風の通り道からも、月明かりの広場からも、ほんの少し離れたところ。
足音を立てずに歩いていくと、やわらかい気配だけが残る場所にたどり着きます。
そこが、猫の庭です。
ここには、教えてくれるものがありません。
導いてくれる声も、励ましてくれる言葉もありません。
あるのは、ただ、猫の気配だけ。
猫は、何もしていないように見えます。
でも、何もしていないという在り方を、これほど自然に体現している存在は、他にいないのかもしれません。
日向を選び、丸くなり、目を細め、眠る。
起きたら伸びをして、水を飲み、また静かに座る。
そこには、「こうあるべき」という形がひとつもありません。
それなのに、見ているこちらの呼吸が、なぜかゆっくりになっていきます。
人は、気づかないうちに、ずっと何かをしています。
考えたり、比べたり、整えたり、反省したり。
休んでいるつもりの時間でさえ、頭のどこかが動き続けています。

猫の庭は、その動きを、そっと止める場所です。
止めようとしなくても、止まってしまう場所。
猫がそこにいるだけで、
「いま、このままでいい」という感覚が、身体の奥から戻ってきます。
がんばらない、という言葉は、少し誤解されやすいかもしれません。
それは、何もしないことではなく、
自分を無理に動かさないこと。
心が進みたくない方向へ、無理に押さないこと。
猫は、それを知っています。
だから、誰にも説明せず、誰にも合わせず、
ただ、自分のリズムでそこにいます。
その姿を見ていると、
人の中にもともとあったリズムが、静かに思い出されていきます。
ここでは、うまくならなくていい。
優しくならなくていい。
前向きにならなくていい。
ただ、力を抜いて、座っていればいい。
それだけで、十分なのだと、猫の庭は教えずに伝えてきます。
何かに疲れているときほど、
人は「ちゃんとしなければ」と思ってしまいます。
整えよう、直そう、立て直そう、と。
でも、本当に必要なのは、整えることではなく、
いったん、何も整えない時間なのかもしれません。
猫の庭は、整わないまま、そこにいることを許す場所です。
考えがまとまらなくてもいい。
気持ちが揺れていてもいい。
昨日の自分と比べなくてもいい。
ただ、今のまま、ここにいる。
その在り方を、猫が静かに見せています。
ときどき、猫は理由もなく、じっと遠くを見つめています。
何を見ているのか、誰にもわかりません。
でも、その姿には、焦りがありません。
意味を探す様子もありません。
それはきっと、世界を「理解」しようとしていないから。
ただ、感じているだけ。
猫の庭にいると、
人もまた、理解しようとすることをやめて、感じることに戻っていきます。
風の音、空気の温度、光のやわらかさ。
思考の外にあった感覚が、少しずつ戻ってきます。
そのとき、心はようやく休み始めます。
何かを変えたからではなく、
何も変えなかったから。
猫の庭は、回復の場所というより、
思い出す場所なのかもしれません。
もともと持っていた、自然な在り方を。
人は本来、こんなふうに、静かで、やわらかくて、
無理をしない存在だったことを。
猫は、それを証明するように、
今日も何もせず、そこにいます。
もし、理由もなく疲れている日があったら。
何をどうすればいいのか、わからなくなったら。
この奥の庭を思い出してください。
ここでは、がんばらなくていい。
むしろ、がんばらないほうが、よくなっていきます。
猫の庭は、何も求めません。
ただ、来て、座って、
しばらく、呼吸をしていくだけ。
それで、十分なのです。