猫はなぜ、何も持たずに満ちているのか

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猫を見ていると、不思議な感覚になることがあります。

とくに何かをしているわけでもないのに、
その場の空気が、やわらかく変わっていくような感覚です。

丸くなって眠っているだけ。
窓の外を、ぼんやりと見つめているだけ。
ゆっくりと歩いて、水を飲んで、また静かに座るだけ。

けれど、その「だけ」の中に、
人が忘れてしまった大切なものが、すべて含まれているように感じられます。

猫は、何も持っていません。

予定も、目標も、評価も、役割もありません。
明日のことを考える様子もなく、昨日を悔やむ様子もありません。

それなのに、なぜか満ちています。

足りないものを探している気配が、どこにもないのです。

人は、つい何かを足そうとします。

知識を増やし、経験を積み、整え、改善し、
より良くあろうとして、いつもどこかに力を入れています。

でも猫は、何も足していません。

足さなくても、そこにある命の感覚だけで、十分だということを知っているかのようです。

その姿を見ていると、
人の中にあったはずの「何も足さなくていい感覚」が、ゆっくりと戻ってきます。

猫は、時間の流れの中にいません。

時計の針とは関係のない場所で、生きています。

眠くなったら眠り、
目が覚めたら起き、
お腹がすいたら食べる。

それだけのことを、丁寧に繰り返しています。

けれど、その単純さの中に、
無理のないリズムがあります。

人が乱してしまったリズム。

急ぎ、詰め込み、先回りし、効率を求めて、
どこかで呼吸を浅くしてしまったリズム。

猫のそばにいると、その呼吸が、自然と深くなっていきます。

何かを教わるわけではありません。
励まされるわけでもありません。

ただ、猫がそこにいるだけで、
人の体が思い出すのです。

「このくらいで、ちょうどよかった」という感覚を。

猫は、自分を良く見せようとしません。

誰かに気に入られようとも、役に立とうともしません。

それでも、愛されています。

むしろ、その自然さが、人の心をほどいていきます。

人は、知らないうちに、
「こう見られたい」「こう思われたい」という形を身につけています。

でも猫には、その形がありません。

ただ、そのままでいます。

その姿に触れていると、
人もまた、自分にまとっていた形を、少しずつ脱いでいきます。

ちゃんとしなくていい。
役に立たなくていい。
意味がなくてもいい。

ただ、ここにいるだけでいい。

その感覚が、身体の奥から静かに広がっていきます。

猫は、何かを成し遂げていません。
でも、何も失ってもいません。

満ちているというのは、
たくさん持っていることではなく、
何も欠けていない感覚なのかもしれません。

猫の目は、ときどき遠くを見ています。

何を見ているのかは、わかりません。

けれど、そこには焦りがありません。

理由もなく、ただ見ている。

その姿は、世界を理解しようとしなくても、
感じるだけで十分だと教えているようです。

人は、理解しようとしすぎて、疲れてしまうことがあります。

意味を探し、答えを求め、理由をつけて、
安心しようとします。

でも猫は、意味を探しません。

ただ、感じています。

猫のそばにいると、
人もまた、意味を探すことをやめて、感じることに戻っていきます。

風の気配、光のゆらぎ、空気の温度。

そういったものが、やさしく戻ってきます。

そして、そのとき、心はようやく静かになります。

猫は、何も持たずに満ちています。

それはきっと、
持たなくても足りていることを、知っているから。

人も、本当は知っていたはずのこと。

けれど、長い時間の中で、忘れてしまったこと。

猫は、それを思い出させる存在なのかもしれません。

もし、理由もなく疲れている日があったら。
何もしたくないのに、何かしなければと思ってしまう日があったら。

猫のことを、少し思い出してみてください。

何も持たず、何も目指さず、
それでも満ちている在り方を。

そこには、がんばらなくてもいい世界があります。

ただ、いるだけでいい世界があります。

猫は今日も、何もせず、そこにいます。

そして、その姿が、静かに伝えてきます。

「このままで、もう足りている」と。